人間同士のコミュニケーションにおいて、お互いの手持ちの情報が対象であることは「ありえない」と言い切ってよいのですが、多様化する社会に生きる私たちは、情報の非対称性による課題をどう乗り越えていけばよいのでしょうか。私は情報の非対称性を無限の可能性と捉え、そのリスクではなくベネフィットを享受する戦略に注目しています。
さて、ウィキペディアによると、アメリカの理論経済学者ケネス・アローが、1963年に、アメリカの経済学会誌「アメリカン・エコノミック・レビュー」に、「Uncertainty and the Welfare Economics of Medical Care(医療の不確実性と厚生経済学)」という論文を発表し、「医者と患者との間にある情報の非対称性が、医療保険の効率的運用を阻害するという現象」を最初に指摘したそうです。
「information asymmetry」という用語は、アメリカの理論経済学者ジョージ・アカロフが、1970年に、「The Market for Lemons: Quality Uncertainty and the Market Mechanism」という論文で最初に使用したそうです。この論文は中古車市場を例に、情報の非対称性が市場にもたらす影響を論じたものです。中古車市場では、それぞれの中古車の価値を買い手が判断するのは難しいといえます。年数や見た目ではない、手放した経緯をきいている業者しか知らない欠品が気になります。結果として、むしろ良質の中古車の価格を本来の価値より下げざるを得ないため、良質な中古車は市場に流通しなくなる傾向があることを指摘し、これを「売り手」と「買い手」の間における情報の非対称性が存在する(売り手のみが欠点を知り、買い手の側は欠点を知る術がない)環境一般の問題としました。
病院が医療の売り手で、患者が買い手だとすると、患者は「欠点のある医者」と「欠点のない医者」が区別しづらいので、良質な医者が市場に流通しなくなると考えるとおそろしいことです。その悪影響から患者を守るためにあるはずの診療報酬制度ですが、費用対効果の概念がないなど値付け感覚の形骸化が著しく、抑止力になってくれるのか心配です。
特に私の専門性の一つである産業保健の世界では、あっせん業者と事業者の関係から、良質な産業医が流通しにくくなる傾向が出ています。事業者は産業医の差を価格の差でしか知ることができないので、当然、価格だけで判断するしかないわけです。
「ハズレの産業医」をひいた事業者はがっかりすると同時に、どうせ安かろう悪かろうなら、せめて「もっと安いハズレ」に取り替えてくれ、と業者に依頼し、業者はそれに応えます。 この悪循環の中で、本当に能力の高い産業医を見分ける能力が業者にあるかないかは本質から逸れて、価格破壊産業医の大量契約がまん延しています。 事業者は産業医選任義務を果たすことのみはできますが、労働者の安全衛生管理やその増進は望めません。それどころか危険な作業環境が放置されてしまいます。 薄利多売のあっせん業者だって、やりがいはなく、尻拭いに追われ、売上だって爆発的には上がらないでしょう。 産業医の価格破壊を憂える日本産業衛生学会は、斡旋業者に圧力をかけますが、その圧力で事業者が自律的に優秀で高価な独立系産業医を選任できるかというと、それは絵空事です。ここにも圧倒的な情報の非対称性があり、産業保健体制の格差が広がるばかりです。
反対に欠点のない中古車やデキる産業医を適切な価格で流通させたとき、得をするのは誰でしょうか。まちがいなく両者でしょう。 情報が非対称であっても、その関係性において得られる利得が対称なら、両者ともに満足、納得する関係が得られます。 もし、信頼できる値付けがあれば、自分の予算と希望する利得さえ明確にすれば、どの医者を選ぶか、どの治療を選ぶかは決定しやすくなり、情報の非対称性によって損をしているとは感じにくいのではないでしょうか。 たとえば現在は、医療におけるNarative Based Medicineにように車の物語をその付加価値として、売り手と買い手をどちらも満足、納得させようとする良質な中古車販売業者が多いのではないでしょうか? そうであってほしいです。 私は別の専門家と親しくなることが非常に多いです。尊敬するソムリエは、尋ねない限りワインの情報を押し付けてはきませんが、私の感覚的な評価を裏付ける秘密の物語を教えてくれます。そもそもワインの格付けがわからない私は、そのワインがどんなに価値の高い背景を持っていたとしてもそれだけでは大枚をはたきません。まず第一に好きかどうか、好きになりそうなときに、好きになってしまうような秘密を囁かれたら、その出会いは運命になるに決まっています。 課題は情報の非対称性の存在ではなく、その扱いだと言えるでしょう。
当社は臨床医療と公衆衛生の専門性を活かしたコンサルティングをしています。
そのため、「科学的エビデンス」に関するご相談を受けることが多いです。 先日、「行動変容をできないのはなぜか、そして、行動変容に最も効果のある方法とその科学的エビデンスを教えてください」みたいなご依頼があり、「う~ん、どこから説明しようかな」とまいっちゃいました。
たとえば、禁煙という行動変容に効果のありそうな働きかけ、①禁煙専門医による禁煙治療、②心療内科専門医による対面認知行動療法、③アニメで楽しむオンライン認知行動療法、④アイドルAがテレビ番組で禁煙してよかったと発言、⑤なにもしないのうち、最も効果のある方法を科学的に計算することは、理論上は可能ですが、禁煙という行動変容に至るきっかけがこの4通りしかないわけではありませんし、単一事由のほうが珍しいでしょうし、そもそも行動科学が明らかにしてきたのは、行動変容には必ずきっかけがあるわけではないという事実です。④なんてファンにとっては①より強力に効果的で、個人によっての多様性の大きい因子です。
このご依頼を受けて、一応、エビデンスについてお話して、実際の対話に望んだところ、「行動変容の5段階のどの壁が一番破りづらいかとその理由を教えてください」と、学校の入試問題のようなご質問を受けてしまって、混乱するという事件がありました。 ここでは、私の情報量は、非対称性の上位にありますが、困っているのは私です。情報の非対称性の下流にいるからといって、上流の情報を歪めさせて対話を進めようとするのは、シビリティがあるとは言えません。私は専門職なので、情報の上流の立場で対話する機会が多いのですが、同じ専門職と話すときのように自由に話すことができず、苦労することが多いです。
「情報の非対称性」という表現は、たとえば医師と患者のやりとりでは、専門性の低い患者が不利だという意味で取られることが多いようですが、簡単な「科学的エビデンス」という表現ひとつとっても、知らないのが当然の人に対して、「科学的エビデンスの使い方が間違っている」とか、「科学的エビデンスの意味がわかってない」とか言うわけにいきません。そんなことをしたら、「専門家だと思ってバカにしてる」的に、おそらく炎上してしまいます。 情報の非対称性を前提として取るコミュニケーションは、双方にとって難しいもので、単純に、専門用語をわかりやすく噛み砕けばいいというものではありません。そして、情報の下流から上流に、専門用語を噛み砕けと要求するのも、同様にモラルに欠ける暴力だと私は思います。 ご自分の治療の説明なのに、「難しいことを言われてもわからないし、どうせ同意するしかないんだから説明なんてしなくていいです」と耳をふさぐ方もいます。黙って同意だけとってしまう医者もいますが、そういうわけにはいきません。お話を進めていくと、耳をふさぐ態度になった理由を含めた、ご自身のストーリーを語ってくださることは多いのです。
賢いな~、ありがたいな~と感心してしまう相手は、「車のエンジンでいえば、こうしてこうしてこうだから、こういうことだと考えたんですけど、そんな理解でいいでしょうか?」みたいな言葉選びをしてくださる方ですね。私も車のエンジンについて学ぶことができるし、車のエンジンの仕組みを彼流にアレンジしているとしても、私が知らないから混乱することもありません。もし、その説明は、エンジンの説明としては辻褄の合わない部分がある、と思ったとしても、情報の非対称性がある話題の、非対称性を少しでも軽減するために彼が与えてくれた架空の、仮の、対話を進めるための舞台ですから、指摘しません。エンジンでもなんでもいいんです。「エンジンではどの構造に当たるのかはわかりませんが、今のご説明だと、この辺とこの辺が、ああなってこうなって、ということですね」と、彼が誤解している部分を修正することもできます。 仮の舞台は情報の非対称性を前提とする対話において、互いを尊重し、多様な対話の中で柔軟に形を変えるものですが、科学的エビデンスは普遍的なものです。もちろん専門家同士の会話では、科学的エビデンスが柔軟な対話の舞台をつとめてくれるシーンが多いですが、わざわざ非対称なファクターを舞台として選択するのは粋ではありません。
対話のはじめにラポールを形成するというのは、具体的にはこの対話の舞台を設定するということなのだろうと思っています。
医者と患者、産業医あっせん業者と事業者、中古販売業者と買い手にはもちろん、情報の非対称性がありますが、だからといって利得が非対称になるわけではなく、両得の舞台設定が可能だと信じて、対話の力を高めていきたいと思いました。
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