2017年5月、生活習慣病学会誌「成人病と生活習慣病」47巻5号に掲載された全文です。 ダウンロードはこちらから。
要約
生活習慣病の多くは「作業関連疾患」の範疇に含まれ、その発症と増悪に作業や職場環境が関連しているため、職場における予防対策が重要である。
職場環境を整えるためには、法定労働安全衛生制度による企業の安全配慮義務履行はもちろん、保険者による保健事業、そして両者の協力によるコラボヘルスが求められている。
近年、安衛法改正によりメンタルヘルス不全予防やリスクアセスメントが企業の義務として追加され、特定健康診査・特定保健指導制度やレセプト電子化により保険者によるデータヘルスが進められている。
生産性向上を目的とする「日本再興戦略」に後押しされる、健康経営優良法人顕彰事業や導入企業への優遇措置適用など、職場における健康増進は、福利厚生を超えた経営マターとして新しい局面を迎えている。
職場ぐるみの疾病予防と健康増進において、行動経済学的視点を取り入れた対策の効果が期待されている。
生活習慣病の予防や改善には好ましい生活習慣が重要であり、それが最も必要かつ有効である働き盛り世代にとって、医療は概ね日常生活の外にある。多くの労働者は生活のおよそ3分の1の時間を職場で過ごし、職場環境や働き方が健康と関係する一方で、健康状態が仕事の能力や生産性と関係することがわかっている。政策決定者や産業保健専門職としてはもちろん、臨床家として関わる職場の生活習慣病対策および健康増進に関して、データヘルスと健康経営の観点から解説する。
1.職場における健康づくりの動向
日本の産業保健体制は工場法、労働基準法を経て1972年に制定された労働安全衛生法(以下、安衛法)により一応の形が整った。戦後の経済復興、発展の過程で労災が増加し、1961年には死亡災害が6,712人とピークに達したが、1975年には3,725人という劇的な減少が見られた。こうした労災減少は調査・同定・予防、健康診断等の健康管理、作業環境測定等の衛生管理手法の開発、過酷な作業条件や作業環境の改善、有害物質の制限、感染症予防など、限定的なハザード回避と責任体制の明確化による成果であった。
安衛法施行から45年が経ち、産業構造や働き方は大きく変わった。この間、安衛法は時代ごとの変化に追いつくべく夥しい改正を繰り返している。
1980年代には心理社会的環境や組織風土に関連する職場のストレスが健康リスクたり得る事実が、心血管障害をアウトカムとする研究を中心に数多く証明された1,2)。デマンドコントロールモデルに代表される様々な心理社会的説明モデルが確立される一方で、じん肺など直接の因果が明確な職業病(Occupational diseases)だけでなく、循環器疾患や慢性疾患などを含む作業関連疾患(Work-related diseases)という概念が広まった。1982年にはWHOの提唱した作業関連疾患が職業病に加えて国際用語として採択され、1987年にはWHOとILOの合同委員会が作業関連疾患を従来の職業病まで含む広義の用語として使用した。これらの生活習慣病、または生活習慣病に起因する疾患は、本人責任の生活嗜好結果と捉えられがちであった。しかし、労働者の生活習慣には職業的要因が密接に絡んでおり、職業や働き方と労働者の健康には深い関係があることは国際的な常識となった。
このため企業ぐるみの健康づくりの重要性に注目が集まり、1988年の安衛法改正では事業主に対する労働者の健康保持増進措置が努力義務となり、同時に「心とからだの健康づくり」をスローガンにトータル・ヘルスプロモーション・プラン(THP)の愛称で具体的な措置の実施指針(「事業場における労働者の健康保持増進のための指針」)が出された。この、通称THP指針は企業外の専門サービス機関を国が認定、登録し、医師など6種類の有資格専門指導者によって健康測定、健康評価、健康指導(運動指導・栄養指導・メンタルヘルスケアなど)を支援するというものだが、現在、取り組む企業は多くない。
日本では1999年の電通事件等を期に、ハザードとしての労働時間、業務関連性疾患としてのメンタルヘルス不全が認識され、2000年には旧労働省より、さらに2006年には改正安衛法に基づきメンタルヘルス関連の二指針(「事業場における労働者の心の健康づくりのための指針」「労働者の心の健康の保持増進のための指針」)が出された。心理社会的環境や組織風土が労働者の健康を左右し、生活習慣病やメンタルヘルス不全までが職業関連疾患に含まれると、安衛法通りに具体的なハザードを回避し、責任体制を明確にするだけでは、事業者は労働者の安全と健康を確保する義務を果たしきれない。実際にいくつかの司法判断は法令遵守のみでは信義則を履行したことにはならないと明言している。
なお、法律を読み解くのは容易ではないが、たとえ副職とはいえ専門職としての職責を果たす以上、産業医が第一に準拠すべき安衛法を含め、労働三法には目を通しておくことが望ましい。産業医として産業保健の生理学といえる労働制度の根本はエッセンシャルであり、医療教育機関では習得しづらいビジネスシステムを自発的に学ぶ努力が求められる。
2.データヘルスについて
保健事業の目的は加入者の健康レベル(生活の質)改善と医療費適正化の同時実現である。国民皆保険制度は日本の高度成長を大いに後押ししたが、時代に応じて国民の意識や姿勢、年齢構造など社会環境は変化する。それに合わせて事業のスタイルは変化し、近年、特定健康診査・特定保健指導制度(以下、特定健診制度)、さらにデータヘルスが進められている。
特定健診制度は、内臓脂肪の蓄積に起因する生活習慣病(メタボリック症候群)に対する支援を目的として、2008年に施行された。保険者機能の強化、保健指導の普及など一定の成果は認められたが、実施率などの目標達成には及ばず、期待された医療費削減効果は現時点で明らかではない。
本制度導入とレセプト電子化により、保険者が加入者の身体情報と医療費情報を電子データとして管理することになった。このデータの分析による、加入者の健康状態に即したより効果的・効率的な保健事業がデータヘルスである。超高齢化の進展に伴い、働き盛り世代からの健康づくりの重要性が高まる中、政府は金融政策、財政政策に続く“第3の矢”として「日本再興戦略」(2013年6月14日閣議決定)を発表し、“国民の健康寿命の延伸”を重要な柱として掲げた。データヘルスはこの柱を達成するとともに、コラボヘルス(企業と保険者の協働)の推進とあわせ、企業の生産性および社会的評価を向上し、ひいては国全体の社会的・経済的な活力を取り戻して日本再生を実現すると国家成長戦略は予見する。
データヘルスの実効性を高めるべく国は各保険者にデータヘルス計画の作成・公表、事業実施、評価等の取組を求め、順次策定が進んでいる。その内容は、保険者によりさまざまであるが、一般的に、特定健診制度の推進、糖尿病性腎症などの重症化予防、健康インセンティブ制度などであり、重症化予防や治療効果測定などには臨床家も緊密に絡んでくる。
3.健康経営について
健康経営とは従業員の健康増進のための投資が高リターンの獲得に有効な手段であるという視点で、経営マターとして健康増進を戦略的に実践することであり、先に述べた「従業員の健康」と「企業の生産性」が相関するというエビデンスに基づいた経営戦略である。
健康経営は、1992年に出版された『ザ・ヘルシーカンパニー』の中で経営学と心理学の専門家であるローゼン博士により提唱された7)。彼は、①従業員の健康に対するライフスタイルへの影響、②従業員の健康に対する労働環境への影響、③組織の収益性に対する従業員の健康度への影響、④従業員の健康と組織の利益に対する家族、同僚、余暇などへの影響の4点を踏まえた上で、(1)ストレス管理や禁煙、血圧、食事、肥満対策などの生活習慣への積極関与で早期治療と予防の機会を提供し、医療費削減と従業員の疾病レジリエンスを高める戦略と、(2)HRM(ヒューマン・リソース・マネジメント、人的資源政策)を通し健康増進と生産性向上につながる労働環境を作り上げる戦略の2つの組合せが「究極のヘルシーカンパニー」を確立するとした。
2003年には全米でうつ病と慢性疼痛による年間のプレゼンティーイズムがそれぞれ約350億ドルおよび470億ドル、総プレゼンティーイズムは年間1,500億ドルを上回ると示された8,9)。プレゼンティーイズムとは、勤怠表上は出勤している従業員が、心身の疾患やサボりなどさまざまな理由でパフォーマンスを出せない場合に、企業の期待値との間に生じるギャップをコストとして捉えたものである。一方、アブセンティーイズムとは実際に勤怠表に空いた穴によるコストであり、単純な人件費、または労働分配率を加味して比較的容易に計算できる。プレゼンティーイズムの定義や計算方法は概念の性質上、複雑になり、研究ごとに説明されるが、プレゼンティーイズムは同一理由で生じるアブセンティーイズムより確実に多く、10倍以上にのぼることもある10,11,12)。
2010年には米国の企業が、健康管理プログラムに1ドル投資して3.27ドルの医療費抑制効果を得たという健康経営において最も有名な報告をした13)。以来、米国では投資効果を削減医療費として定量化するのが一般的だが、日本では制度上、企業は医療費を認識できない。このため前述のコラボヘルスの概念が重要になる。この企業では糖尿病と喘息の従業員に医療費自己負担額を減じたところ、企業負担額が10%以上も減った。その理由は治療費の心配をせずに、定期的・継続的に治療できるようになったからだという。行動経済学的視点では実際に財布から外に出す額が本人にとって自覚しやすい対価となる。例えば、10,000円の治療と5,000円の治療があり、前者のみが保険適応である場合、エンドユーザーである患者にとっては3,000円の治療と5,000円の治療となる。自己負担額が治療コンプライアンスに影響することは、サービス提供者である医者には価値の高い情報である。
健康経営に関連する研究では、前述した医療費の企業負担額に加え、アブセンティーイズムとプレゼンティーイズム、および離職率と研修・教育費から算出する採用コストが金額単位の指標として用いられやすい。日本では医療費の企業負担は一般的ではないが、コラボヘルスにより正確な医療費の把握が可能であり、米国式に企業が従業員の医療費を負担する実例もある。なにより安衛法による労働安全衛生制度の恩恵で多くのデータの蓄積がある。古くから企業内診療所によりアブセンティーイズムを下げ、「三方よし」(売り手よし・買い手よし・世間よし)の精神が息づく日本企業にとって健康経営は馴染みのよいものであろう。つまり、米国生まれの概念ではあるが、労働衛生と皆保険の両制度に恵まれた日本ならでは産業保健専門職のリードという選択肢があり、健康経営の実践が国家課題である医療費上昇の抑制に通じる可能性がある。
2015年には経済産業省と東京証券取引所が共同で初代となる健康経営銘柄を選定、第3回となる本年度からは顕彰対象範囲を中小企業に拡げた。優良就職先として斡旋、公共調達の加点評価、補助金・支援要件、金融機関による低利融資、コーポレートガバナンスの評価などの優遇措置がある。もちろん生活習慣病対策は主要な認定基準である。
4.職場ぐるみの取り組みについて
2016年には健康経営やデータヘルスとともに「日常生活の動線の中で健康づくり・疾病予防ができる環境を地域ぐるみ・企業ぐるみの取組により整備する」ことが閣議決定された14)。つまり、職場など日常生活の環境で健康増進に取り組むことが勧められている。
健康増進プログラムの有効性については内外で多くの先行研究がある15,16)。医療従事者は理屈で説明することが最上と考えがちだが、教育・啓発・情報などによる行動変容は6.9%にも満たない。法令による制限や財政措置は民間企業には権限がなく、マスメディアによるキャンペーンや医療専門職による直接介入はコストがかかる。
労働者の医療費の多くは職場の介入で削減できる可能性がある。疾患群やハイリスク群のみへの介入効果は限定的であり、ポピュレーションアプローチによる効率に議論の余地はない。しかし、その参加率が最優先課題である。企業による健康増進プログラムの参加率は従業員全体の数%にとどまるのが現実だ。有効なプログラムの特徴を検証することも大切だが、健康無関心層の参加率向上は更に重要な課題であり、解決には行動経済学が役に立つ17)。行動経済学研究は人の行動の不合理さを明らかにしてきた18)。完璧な合理性など現実にはなく、実際の人間は生活の中で無数の選択をする際、直感的に近道を通る。つまり意志決定には、早くて、自動的で、努力を要さず、より感情的な「システムⅠ」と複雑かつ論理的で中立性の高い「システムⅡ」という二重のプロセスがあり、人間の行動の多くはシステムⅠに依る。あるプログラムに従業員を参加させたいのなら、このしくみをうまく利用して、自然にプログラムを選択するよう仕向けるしくみ、つまり、「ナッジ」が重要になる。難解で専門的な説明は、ごく少数の健康オタクにとっては魅力的でも、その他多くの従業員には冗長で退屈なものとなろう。
行動経済学的「ナッジ」については、人の行動をパターナリズム的に縛るという批判もある19)。しかし、パターナリズム的な手法であっても、エンパワメントとして、正しい、好ましいとわかっている行動に従業員を導く場合には、シンプルな投資として評価できる。従業員に知らぬ間に好行動を選択させる職場環境、組織風土を形成することこそが健康経営であり、医師は経営者の参謀として職場で従業員の健康行動を促すことに貢献できる。
5.職場の生活習慣病対策および健康増進に医師が果たす役割
医療機関で労働者を診察するとき、患者を雇用する企業にはアブセンティーイズムが、加入保険者には医療費が発生する。診療による健康経営を実践するためには、そのアブセンティーイズムや医療費というコストを凌駕する効果が必要である。すなわち、疾患や症状によるプレゼンティーイズムを解決し、最も早く安く効率のよい医療を提供することが肝要となる。普段から生活習慣の把握のために就業についての問診を欠かさないようにし、個人への介入のみでは不充分だと思えば積極的に企業に意見してよいし、必要な情報は積極的に企業に求めてよい。英国では診療所医師(GP)を中心に「ソーシャル・プリスクリプション(社会的処方)」が広まっている。これは、疾病や症状の社会的要因を避けるため、非医療的なサポート資源につないで社会環境を変えるものである。病因には恋愛やハラスメント、孤独や借金など一般診療で解決できないものがある。医療従事者は医療知識に優れる一方で、一般社会のあれこれに疎いことも多い。主治医として産業医として、社会のしくみに寄り添いながら、社会全体の生活習慣を好方向に導いていくことが健康な社会に寄与することを念頭に置いて、日々の診療に当たりたい。
なお、本論文は、第51回日本成人病(生活習慣病)学会学術集会(2017年1月)におけるシンポジウムⅡ「職域と生活習慣病」での講演をもとにしている。
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