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Yoko Ishida

36~39)働き方の工夫で健康と生産性を向上(Volvo社の研究から)

36)BPSヘルスは成長する


次に紹介する研究は、そんな人間の可能性を、科学的に示すものだ。

一人で1日に1本しか作れなかった釘を、行程ごとに分業し、必要な部分を自動化すれば、1日に数百本でも生産できるという革新的な発見により、産業革命は加速した。生産性は向上し、世界の経済に大きく貢献した。

ひとりで最初から最後まで作るより、ライン作業の効率がよいということは大発見で、これに異論を唱える人はいない。作業工程を細かくわければわけるほど、各工程の作業を、誰でもできる単調で簡単なものにすればするほど、生産性が上がる。それぞれを機械化してしまい、どんどん機械の精度を全体で一律に上げていけば、さらに生産性は上がる。

もし、機械のように、人間の性能が一定で、得意な作業が一つで、明確に定義できるのなら、得意な性能をつないだライン作業で、生産性は最大化し、それが、まさしく、適材適所となる。採用や育成は、ラインの穴を埋める目的で行なえばよく、テイラーの科学的生産管理は、素晴らしく機能する。


しかし、人間は生きている。生きている人間は、無機的な計算どおりには動かない。その性能は、疲れたり飽きたりしたら落ちるし、没頭したり集中したりしたら上がる。

人間には、「火事場の馬鹿力」と「利他の幸福」が備わっている。



1998年、スウェーデンの自動車メーカー、ボルボ社では、生産性を最大にするため、ライン作業を採用していた。従業員はライン上で、決められた作業を黙々とこなし、別の作業は受け持たない。ラインでは、それぞれが特定の作業に従事し、効率よく流れ作業が進む。

自分の担当する工程が、できあがる車本体に貢献する位置づけどころか、車を作っているという意識さえ不要だ。ただ単調な作業を正確にくりかえせば、一日が終わり、給料が支払われる。

楽しんでも楽しまなくても、作業も報酬も変わらない。

ある部品を本体に取り付けてネジを回す作業は、エンジンを組み立てるために必要だが、そのエンジンを搭載した自動車が、海岸をさっそうと走り抜ける魅力的な光景は、とうてい作業中の頭には浮かばない。

工員の多くは単調な作業に退屈し、目的の不在による虚無感を抱き、給与以外に心理社会的な報酬はなく、仕事に対する満足度は低かった。

そこで、従業員の心理的苦痛による健康障害対策として、生産性を犠牲にしたプロジェクトを試みた。

ラインではなくチームで、エンジンを組み立てさせたのだ。



それまで、同じラインで、別の作業を担当していた総勢7~8名でチームを構成し、みんなでエンジンを組み立てる。それぞれのメンバーが全体の流れを把握した上で、得意も苦手も、すべてのプロセスで助け合いながら、関係していくことになった。わからないことは学んでいく。完成品の運転試験まで含めた、すべての工程について、全員がしっかりと、関係する必要がある。

チームの作業では、まず、できあがりのイメージを共有しなければならない。全員が共通の完成像を目標として、協力しながら各工程の作業を行なう。それぞれの工程が得意な人も苦手な人もいるし、ラインで自分が担当していた作業以外の、ほとんどの作業には不慣れだ。ライン時の各工程担当者は、責任を持って、チームに当該作業を説明する。ライン作業では不要だった、コミュニケーションが不可欠になる。コミュニケーションを円滑にするには、リーダーシップの発揮や、相互のサポートなど、ラインにおいては存在しなかった役割が増える。



たとえば、その後の過程で付け替えられる仮止めのネジと、作業時が最終的な固定で、そのまま製品として出荷されるネジでは、緩めやすくするか、確実に締めるか、締め方の工夫は異なる。思考量が増え、作業量が増え、内容は複雑になるのだから、それぞれの従業員の作業性能が一定なら、生産性は、当然、下がる。



ところが、チーム作業の生産性は、ライン工程に比べて下がらなかった。同じ従業員たちが同じ時間働いて、ライン作業の製造予定通りの台数のエンジンが、1日で完成した。

この結果は、パフォーマンスの総和が上がったという事実を示す。おそらく全員が、ライン上よりも多くの作業をこなしたたし、何倍もの作業をこなした人もいただろう。つまり、個々の従業員のパフォーマンスが大きく向上したのだ。



 一方、共同作業の結果、メンバー全員の心身の健康状態は飛躍的に向上した。ライン作業時と比較して、共同作業で知覚された精神的苦痛はあきらかに低下し、エンゲージメントはあきらかに高まった。作業開始から作業終了までの間、共同作業ではどんどんストレスホルモンが増え続けるが、ライン作業ではその値はさほど変化しないで、むしろ減る。しかし、共同作業では、終業後にリラックスすると、ストレスホルモンの分泌はピタッと止まり、一気にストンと血中濃度が下がって、リセットした。オンとオフの境界が、はっきりしたのだ。

ライン作業では、終業後にもストレスホルモン分泌は続き、血中濃度はむしろじわじわと休養中に上昇し、心身の疲労は蓄積した。ストレスホルモンの血中濃度は、共同作業では終業時には最高値になるが、朝の開始時にはゼロなので、ライン作業者より高値になるのは、終業前の数時間だけだ。

ヤーキーズ・ドットソンの法則のとおり、ストレスレベルが低い状態から高まると、パフォーマンスは向上する。ワーク・エンゲージメントの状態は、いわば狩猟本能でアドレナリンが出ている興奮状態で、だからこそ没頭し、集中できる。職場のストレスマネジメントには誤解が多いが、仕事中のストレスは、絶対に、あったほうがいい。仕事中に充分にストレスを高めるために、適切な休養によって疲労を回復し、毎日の仕事の開始時や、休憩時間あけには、ストレスレベルを下げておくのが、本物のストレスマネジメントだ。仕事中に、ストレスレベルが高揚するのは、すばらしいことで、ワーク・エンゲージメントで高まるのは、ユーストレスという好ましいストレスだ。一方で、心理的苦痛と同義のディストレスや身体的疲労を、休養によって開放できずに、蓄積した上、職場でユーストレスを高めなければ、心身はどんどん疲弊していく。

プロジェクトの結果は、ヤーキーズ・ドットソンの法則を確かめたとも言える。



アンケート調査でも、作業者の自己独立性、新しいスキルの習熟、仕事多様性など、あらゆるワーク・エンゲージメント項目で、チーム群はライン群を上回っていた。仕事の興奮冷めやらず、ストレスレベルは高くても、精気が残っているメンバーは、そのまま和気藹々と、居酒屋に繰り出したかもしれない。そして、互いをねぎらい、リラックスして、ストレスをリセットし、当日の作業を振り返り、翌日の作業計画の意見が飛び交ったのではないか。ほろ酔いのデフォルトモード・ネットワークでは、翌日の作業への、革新的なアイデアが飛び出したかもしれない。

生産性と給与の額は変わらなくても、互いからの承認や自己効力感、働きがいという報酬は、ぐんと増えた。自分の仕事が、誰かの幸福につながることで得られる、いきがい、チーム間の承認や支援、そこで芽生える自他への感謝と尊敬の心、リーダーシップや調整能力などの才能の開花を通して、メンバーは、自律的に、どんどん仕事を楽しんだ。

ケミストリー(化学反応)とは、心理学用語で、人と人との相互作用で生じる素晴らしい奇跡を指す。たくさんのケミストリーを発生させて、メンバーは共同作業で自律的に成長し、メンバー全員とチーム全体が、BPSヘルスを手に入れた。

人間の性能は膨らむ。科学的管理の枠にははまらない。

一日で仕上がるエンジンの数はラインとチームで同一だったが、これはチームが、計画通り、ラインと同数を、目指したからかもしれない。もし、創れるだけ創ってよかったら、レゴのロボットのようにエンジンがずらっと並んだかもしれない。


37)格差と生産性


各従業員のパフォーマンスが一定なら、全体で最大の生産性を達成するためには、ライン方式を選択する方針が確実です。それなのにボルボ社で生産性が劣らなかったのは、各従業員のパフォーマンスが一定不変なものではなく、有機的で無限に可塑性を持つ能力だったからです。生きている人間の能力は、教育や研修、経験で知識や技術が向上するだけでなく、疲労や退屈で低下することもあれば、集中や没頭で増大することもあり、気分や体調におおいに左右されます。

ボディやボディの機能と同じように、パフォーマンスという人の性能には、廃用劣化のリスクや成長への可塑性があり、成長に限界はない。

廃用とは、使わない機能が低下、あるいは停止することだ。

ボディを構成する各部分も、組織を構成する個人と同様に、必要とされなければ、サボってその機能を失ってしまう。

風邪をひいて数日、床に伏したあと、足腰の動かしにくさを感じたことがあるだろう。風邪は上気道の炎症で、足腰には直接の異常をきたさないが、風邪気味で動かないと、劣化する。

臥床期間が長引くと、たとえば脳梗塞や大腿骨頸部骨折による長期安静療養後、麻痺側と反対の健側まで思うようにならなくなったり、骨がくっついても立ち上がれなかったり、人との交流が減って認知機能が低下したりする。

パフォーマンスを創るのはワーク・エンゲージメント、すなわち脳にとってのやりがいで、職域におけるBPSヘルスは、医療における正常のような限界のあるものではなく、無限に増大可能な尺度である。


ボルボ社の事例は、時間管理の参考にもなる。現在、働き方改革の推進により、労働時間管理に四苦八苦している企業が多い。実は、企業内の総残業時間と総生産性は、負の相関、つまり反比例することが科学的にわかっていて、生産性を高めるために残業時間を制限するという姿勢は間違ってはいない。しかし、たとえばそのエビデンスを示して規制の妥当性と会社の本気を伝える前に、強制消灯などで頭ごなしに残業を禁止するような管理は、タイムカードの打刻後のサービス残業や、仕事を自宅に内緒で持ち帰るような本末転倒の結果を招く。

健康と生産性は相乗的に高め合うが、労働時間を減らせば、健康になるわけでも生産性が上がるわけでもない。健康と生産性が相乗的に高め合う、シンプルな法則を理解すれば、ただ闇雲に法令に従い、業務への支援なく、時間だけを制限するナンセンスな管理で、従業員の健康と生産性の両方を犠牲にする悲劇を免れる。ライン作業とチーム作業の作業時間は同じでも、従業員は健康と生産性を同時に高めたことから、作業時間そのものではなく、その使い道が鍵だということは、明らかだろう。

確かに、個人レベルの残業時間をなんらかの不健康リスクとして証明した研究は多い。私の研究でも、個人レベルの残業時間が増えると、本人の心理的苦痛は増加する傾向がわかった。一方、職場単位の残業格差で見てみると、残業がない、または少ない従業員の心理的苦痛は、残業している従業員が多い職場で最も高く、反対に月に45時間以上の残業をしている従業員の心理的苦痛は、残業している従業員が少ない職場で最も高かった。「赤信号、みんなで渡ればこわくない」ではないが、図のように45時間以上の残業をしている従業員は、職場の45時間以上の残業率が5%未満だと、残業率が30%以上の残業過多環境よりも、心理的苦痛が高くなる。


働き方改革の残業管理として、平均残業時間の報告が、300人以上の事業所に義務化されそうになったが、機械的管理の限界で触れたように、有機的な人間の集合による組織を、平均で捉えるのは不毛だ。

100人の事業所で、99人が残業なし、1人だけが100時間残業をしているA社と、100人全員が2時間ずつ残業をしているB社があるとする。1人ぼっちで100時間の残業をしているA社の従業員の心理的苦痛について、想像すらしたくないが、B社の全従業員は、心理的苦痛ではなく、チームワークを高めて、絆を強めるだろう。残業代は、全員にとって、ちょっとしたおこずかいになる。

しかし、平均残業時間で比較するとA社は1時間、B社は2時間で、B社のほうが2倍の残業を社員に強いる、よりブラックな企業のように見えてしまう。

平均時間の低下を目標にすると、残業を一部の従業員に押しつける格差環境をつくるリスクがあるが、組織の正義を否定する格差環境は、従業員と組織の健康と生産性を著しく阻害する。目指す理想型はシンプル、格差がなくて正義があり、絆と信頼の豊かな組織だ。


各従業員の心理的苦痛を減らしたい場合は、全員が2時間というように、45時間以上の残業率を少なくとも10%未満に抑えて、多くの従業員の残業時間をできるだけ格差なく減らしていく管理が必要だ。一部の従業員に残業が偏る原因には、仕事の属人化も影響している。特定の従業員しかできない業務を残業で賄うために、特定の従業員の残業が増加している場合、その業務を他の従業員にもこなせるようにするために、業務を分けたり、変更したりする工夫と、従業員の育成が同時に必要となる。その業務プロセスが慣例でしかなく、省けるものならやめてしまえばいいし、本質的な業務ならばなおさら、一部の従業員にしかこなせない設定では、企業の持続可能性にとって不利である。

法令遵守および健康と生産性の最大化を達成するために、業務の変更と配分の計画を立てることになるが、変更や育成のプロセスでは業務が膨らむため、一時的に残業時間が拡大することを許容して、長期的に実現する視点を持つ必要がある。平均値などにとらわれて、本質を見誤り、優先順位を違えることで、組織と従業員の健康と生産性をすべて犠牲にしてしまう管理は避けたい。

ボルボ社や私の研究からわかるように、組織において健康と生産性の高いメンバーが多いと、自覚や実行動にかかわらず、組織のメンバーの健康と生産性が自動的に高まる。健康と生産性の高い組織にいるだけで、集団免疫的に恩恵を受けることが、数々の社会疫学研究からわかっている。

麻酔科医は全身をちょうどそんな視点でコントロールしている。

各細胞、各臓器の機能を限定的に定義して、パズルのようにきっちり並べて効率を上げるのではなく、人間に自然に備わっている生きる力をそっと全体的に増幅するような手を使う。全身を構成する各部分をよく観察し、その強みを把握し、必要に応じて負荷をかけたり、休ませたりしながら、全体として最高の状態を維持する。

結局、麻酔科医がどうはたらきかけようとも、実際にはボディの細胞に動いてもらうしかない。

可能な限り客観的に評価し、誘導した後は、各最小単位の自律への信頼こそが、最も大切だ。部分部分に最適な働きかけをすることで、他の遠い部分部分が呼応して、まさに集団免疫を得て集合体であるボディとして、身体生理機能を高めていく。麻酔科医として、この生命の神秘を目の当たりにする喜びは、まさに仕事の醍醐味である。

業務のための場所や道具、マニュアルなどの資源を与えて支援することは、もちろん必須のことだが、それだけではなく、働く喜びを得やすい職場環境や働き方を与えることで、労使全員がもっと得をする。

ボルボ社のチーム作業に励んだ従業員の中には、成果を上げれば、この働き方が採用されるという期待があっただろう。体の器官も全く同じような反応をする。きもちよい、心地よい、積極的に楽しい環境に居続けるためには、誰もが自然に積極的にがんばる。さぼっても、なにもしなくても、マイナス評価すらされない環境に居続けるための努力は誰もしないし、その環境で人は、ただただ怠惰になっていく。これが人間で言えば前述した廃用で、ストレスのない環境というのはむしろ、生物の機能を奪う。

何もしなくていい職場で何もせず、楽な仕事だと喜んでいる連中の尻ぬぐいをできる社員がしている職場は少なくない。せっかくのスキルをダメ社員の尻ぬぐいに使うため、自身のキャリアを伸ばす余裕がなく、報酬は年功序列なので尻ぬぐいの仕事は評価されない。デキる人ほど自分の仕事のために尻ぬぐいもさっさとかたづけてしまう。知りぬぐいをしない言い訳をする無駄な時間より、つまらない仕事でも片付けることで、キャリアの糧にするのが、有能な社員の考え方だ。

ダメ社員でいるほうが得をするというノームが浸透した職場では、できる社員は組織を離れる。もしくはできる社員、あるいはできる社員候補の若い社員たちが、仕事をがんばって尻ぬぐい役に回るくらいなら、なにもしないでお尻をふいてもらう側でぼんやりしていれば、年を取るだけで給料が上がっていくと考えて、向上心を失う。結果、社内には何もしない廃用社員しか残らない。

ダメ社員たちが、こっちにいると損だ、できる連中はなんだかおもしろそうだぞ、とひとりでに右側に進んでくるような設定づくりが大切だ。


38)健康経営の落とし穴


イチゴの糖度を増すとか、牛肉の霜降り度を増すとか、そのような単一の達成尺度が明確な育成の場合は、数学的な数値を元に、機械的に管理するのが望ましい。しかし、人間が満足度を得る条件は多様だからこそ、多様な条件を公正に受け入れて評価してもらえる場であり、多様な方向への成長に対し物理的にも心理的も社会的にも業務支援を惜しまない場であると感じたときに、個人がそれぞれ自分の強みを活かした成長を自分自身で自律して行なうことになる。

手術中は数分に一度、血圧を測るが、研修医や無能な麻酔科医は、低血圧のアラームが鳴るたびに闇雲に昇圧剤を投与する。

血圧は拍動ごとにちがうし、上腕のマンシェットで測る値はさほど厳密なものではない。アラームが鳴らなければ、収縮期血圧が80mmHgでも投与しない昇圧剤を、アラームが鳴ったからと、79mmHgで機械的に投与するのが麻酔科医ではない。その管理がボディにとって望ましいなら、その作業は人間である麻酔科医より機械がやったほうが正確だ。

私は研修医に、昇圧剤はあなたの抗不安薬ではない、と指導する。

一度測定した血圧が低いという瞬間的な事象で、医師の心の安寧のために、いたずらに昇圧剤を投与したとしたら、血管は無理やり収縮させられ、そこに血液を押し出す心臓の仕事も増やされる。当然、反応性に血管がれん縮するリスクがあり、致死的な心筋梗塞などにもつながりかねない。適切な血圧を維持する目的は、必要な酸素を各臓器、細胞に送り届けることだから、各細胞に自律的に働き続けられるだけの酸素が届いていれば、特に問題はない。

静脈内に麻酔科医が投与する薬は、ボディの部位に対する業務指示である。業務には常に目的が必要で、指示が多いと混乱しやすい。ただいたずらに、自分の気分で、部下への指示をしてはいけない。管理は監視でも使役でもない。働くのは管理者ではなく、部下なのだ。自分の価値観に合い、かつ、社会の役に立つ仕事を自律的に行なうとき、働く部下の生産性と健康は、最も高くなる。

血圧が下がっている原因を、上流にさかのぼって考えた上で、血管や心臓には負担をかけることにはなるが、昇圧剤のサポートがなければ生命の恒常性が維持できない場合のみ、外から薬を投与する。私たちの体は、一時的な低血圧や高血圧に耐えられるような機構を、何重にも備えている。余計な指示を与えてボディを混乱させないことは、現場の管理職同様、医師のつとめだ。

ボディをつくる40兆の細胞一つ一つが、全員同じ目的で同じ強みを発揮するために同じ営みをしていたら、ボディはひとつの有機的なシステムとして、とても機能できない。企業や組織も同様だ。ボディにとって不要な細胞や、組織にとって不要な人材はないが、全細胞や全人員が同じ方向を向いて、同じ機能を果たすのは、けっしてボディや企業にとって有利ではない。有利でないどころか存続できない。もし、同時にできるだけ多くの要素が、画一的な作業をすることが有効なら、その作業は、生きて、循環し、流動し、成長し続ける、有機的で多様な細胞や人間ではなく、疲れず、飽きず、成長もしない機械に任せるのが、正確で完璧だ。そのようなタイプの仕事を、全部機械に任せても、細胞や人間にしかできない役割はこの世に無限にある。有機的な組織は、予測できないほど多様な動きを、てんでんばらばらに要素が自律的に行なうときにこそイノベーションが生まれ、爆発的な発展を遂げる。


さて、ボルボ社では、テストプロジェクトの終了後、こんなによい結果だったのにもかかわらず、ライン制に戻してしまった。

こんな実験を行えるほど柔軟な企業で、こんなに明白な科学的エビデンスが示されても、慣例を変えることは難しいという一例だと感じる。このままどんどん創造的な仕事を続けていけば、生産性はより高まったと確信する。これも勝手な妄想だが、自律的に働く喜びに目覚めた被検者の中には転職した人もいたかもしれない。

前述のように、新たな自分や働く喜びを発見した上で、あるいは発見するための転職は、おおいにけっこうで、元の企業にも、転職する従業員にも、不都合はない。働き方を選ぶ権利を行使する人間と、自分が一番輝ける場所に気付かせてくれた企業の、健康と生産性は向上する。その従業員は、転職先で、柔軟な働き方を与え、自分の新たなキャリアのきっかけをつくってくれた前職について好意的に語る上、新たな職場で、たいへんよい仕事をするので、結果として、ボルボ社の価値はあがることになる。積極的な転職は外部に対する企業の宣伝機会だ。どうしたら離職する社員を減らせるのか、という視点でマネジメントしようとする企業が非常に多いが、従業員は多少いやなことがあっても、やりがいのある業務なら没頭できるし、これといっていやなことがなくても、与えられた業務に魅力を感じられないと、たとえば給与が見合わないとか、ロールモデルがいないとか、不定愁訴を唱え出す。辞める理由はなくても、働き続ける動機がもっとなければ、人は廃用するか辞職する。働き続ける動機を与えられずに、従業員の離職を止められない企業は成長できない。離職は企業にとっても従業員にとっても、健康と生産性にとって有効な浄化作用である。離職によって求職や新従業員の育成に多大なコストがかかるため、離職率は企業の生産性を測る一つの尺度ではあるが、明白な離職動機は、企業に大いなるヒントを与える。これを利用できるかどうかで企業の価値が決まるので、離職率が高くても成長し続ける企業はたくさんある。辞めやすい会社というのも、一つの価値なのだ。


優れた働き方は、健康と生産性を同時に向上し、優れたヘルスケアはやはり、健康と生産性を同時に向上する。これは個人単位でも組織単位でも細胞単位でも同じことだ。経営において、増進するのは健康ではなく、生産性だと考えるほうが、非医療者には馴染みやすいだろう。健康と生産性は双方向性に相乗的な関係というだけでなく、ほとんど同一概念でさえあるから、流行の健康経営という表現に引っ張られすぎて、健康管理に偏りすぎるのは危険だ。

麻酔をかけるときも、他の仕事でも、できるだけ最短距離で楽に到達できる近道が、ベストだ。

ビジネスマンが健康という耳慣れない単語を定義するべくインチキ健康読本を読む時間こそ無駄で、最初から得意な単語、キャリアとか成長とか業務達成能力とかスキルとかに変換しちゃうのがお勧めだ。インチキメディアに踊らされて高額な浄水器を設置しても、工場でヨガ体験イベントをしても、退屈な作業で蓄積している心理的苦痛はクリアされず、生産性は変わらない。

仕事のエンゲージメントの増大やディストレスの軽減は、業務への認知と行動、すなわち働き方の変化でこそ得られる。水を飲んでも、ヨガをしても、つまらない仕事はつまらないまま、きつい仕事はきついまま、窮屈な人間関係は窮屈なままだ。

本来、健康経営とは、組織と従業員の健康と生産性という4つの象限の全てを成長させる経営だ。この4つは独立して動くことがなく、どこか一象限が高まると、自動的に他の象限が高まることが明らかなので、得意なところから、コントロールできるところから、手をつければいい。


39)企業主体の予防医療


 健康経営という表現に引っ張られて、健康管理に傾きすぎる企業が犯しやすい過ちに、法定健診結果の取り扱いがある。

 検査データの基準範囲には、多くの従業員にとっての最適値が含まれていることが多い。そして健康な従業員のありのままの値は最適値に近づくから、各項目で検査値が基準範囲に入っている従業員の割合は高い。だからといって、組織と従業員の健康と生産性という視点で見たときに、有所見率という指標が妥当とは言えない。最適温度と同様、平均値であることより、そのときの自分にとっての最適であることのほうが、誰にとっても居心地がいい。平均値を囲む範囲にあるからといって、健康と生産性が高いという根拠と妥当性がどちらもない。

前述のように、1つの項目でも異常があれば、その従業員には有所見のラベルが貼られ、産業医による事後措置の対象となる。しかも現在は、有所見率が50%を超えているから、有所見従業員は無所見従業員より人数が多い。

さらに、法定健診結果表示の不思議な点として、産業医の勧奨通りに受診し、通院し、治療を受けて、数値を正常にしても、有所見のラベルを剥がさない。まるで前科のように、要経過観察、要注意、要診療のさらにひどいレベルとして、治療中と表記する。これでは治療する利益がない。最初から所見のない従業員以上に、自らの努力で所見を正常化した従業員を評価するべきだろう。


それでも健康経営を推進している企業の多くが、法定健診結果を踏まえた介入に興味を示すので、特に介入の価値が高いと考えられる、高血圧を取り上げてみよう。

法定健診で血圧を測定し、高血圧者に注意をするのは、脳出血や心筋梗塞など、血圧が高ければ高いほど起こりやすく、従業員の健康と生産性を大きく妨げることになる、加療を要するイベントの発症を防ぐという予防倫理による。

血圧を測定する目的は、160や180という絶対値を知ることではない。予防できる脳卒中を防ぐことだ。予防できる脳卒中を防ぐという目的は、脳卒中を発症する人数を減らすという目的とは、異なることに注目してほしい。

脳卒中と診断される従業員の人数を減らすために最も確実なのは、従業員に医療機関の受診を禁じる方法だ。診断は医療機関でしか行なわれない。この方法で、医療機関にしか支払わない医療費も下がる。しかし、この方法が健康と生産性の成長プロジェクトとして推奨されないことは、誰にでもわかるだろう。

こんな極端な方法を選択する企業はさすがにないが、してしまいがちな介入が、血圧の高さに応じて介入をコントロールしたがる企業は多い。ハイリスク戦略だ。

実際には、血圧だけが高くて他の健診項目が正常値の人にも脳出血は起きるし、血圧を含むすべての健診項目が正常値の人にも脳出血は起きる。一方で、日常生活を送れる健康状態で、血圧を下げるリスクはほとんどない。


脳卒中は滅多に起こらない。厚生労働省が公表した2018年人口動態統計月報年計によると、老衰による死亡数が脳血管疾患による死亡数を上回り、死因の第3位になった。これまで長きにわたって日本の三大死因の第三位を占めてきた脳卒中だが、その発症数は500人の国民に1人程度で、死亡するのは、その4割程度である。

脳卒中の発生率は、120/70(収縮期血圧が120mmHg未満かつ拡張期血圧が70mmHg未満)の至適血圧の群を基準にすると、140/90(収縮期血圧が140mmHg以上または拡張期血圧が70mmHg以上)を超える高血圧群では約3.3倍、180/110を超えるⅢ度の重症高血圧群では8.5倍となる。これは、140/90~160/100の軽症高血圧で発症する人数の3倍近い重症高血圧者が発症するような誤解をされやすい。実際には血圧は、134/80程度を平均として分布しているので、脳卒中になる人の人数は、Ⅰ型の軽症高血圧者が最も多い。

だから、もし、ポピュレーションアプローチではなく、法定健診結果を用いたハイリスク戦略で脳卒中発症人数を減らしたいのなら、Ⅰ型の軽症高血圧者を選別して、確実に血圧の下がる降圧薬投与を行なうのが効果的だ。心筋梗塞や脳卒中などで高額医療を要する確率は多くないが、たった一例でも健保の財政を逼迫しうる。一方で維持的な降圧薬の服用は安価なので、投資価値は高い。ただ服薬行動の徹底には努力が必要だ。

受診勧奨をしてから自律的に受診するとは限らないし、しなくても受診できる従業員は自律的に受診する。受診しても降圧薬を処方されなければ血圧は確実には下がらないし、処方されてもそれを服用しなければ下がらない。だから最も有効で確実なのは、降圧薬を静脈内に投与する麻酔科医レベルの介入だ。

しかし、企業による降圧薬の静脈投与は現実味がないし、より重度の高血圧者を放置するのも不安だろう。

それでは、法定健診項目の血圧測定結果に焦点を当てた、現実的で有効な企業による介入とはどのようなものだろうか。


高血圧の定義は世界的に「収縮期血圧が140mmHg以上、または拡張期血圧(いわゆる「下」の血圧)90mmHg以上」という定義から「収縮期血圧が130mmHg以上、または拡張期血圧80mmHg以上」に変化した。高血圧という不良事項はそのままだが、基準値の変更で高血圧者は増えた。

ところが、基準値が変わったからといって、治療は変わらない。ともかく血圧は下げれば健康になるというのが大筋のエビデンスで、その解釈によって、定義は書き換えられる。

だったら少なくとも職場では、ハイリスク戦略で高血圧を定義する必要はなく、高血圧であってもなくてもとりあえず血圧は下げようとするノームをつくればいい。高血圧者の定義と選別のプロセスは不要で、「血圧は下げるべし」でよい。まさしく、「血圧は、みんなで下げればこわくない」キャンペーンだ。

服薬していてもいなくても「収縮期血圧130mmHg以上、または拡張期血圧80mmHg以上」なら自己保健義務不充分で、そうでなければ血圧の自己管理ができている。もし、「平均血圧65mmHg未満」の低血圧の場合は、産業医へ相談する。高血圧の診断は医療機関でしかできないが、自己保健義務不充分の判断は企業が行なう。だから、もしどうしてもラベルにこだわるのならば、自己保健義務不充分のラベルをつけよう。

この上で、ハイリスク戦略ではなく、ポピュレーションアプローチで、みんなの血圧を下げる。


塩分摂取と高血圧の公衆衛生的研究の大家、Nancy R. Cook先生が1995年に発表した、集団内全員の拡張期血圧を各2mmHgずつ下げた場合の試算を示す。(Cook N R., et al., "Implications of small reductions in diastolic blood pressure for primary prevention". Arch Intern Med. 1995.)

集団内全員の拡張期血圧を各2mmHgずつ下げると、高血圧(拡張期血圧90mmHg以上)の発症率は17%減る。もともと高血圧の発症率が24%だった場合は、発症率が17%減って20%の発症率になる。

1,000人の企業なら、全社員の血圧を2mmHg下げると、もともと240人いた高血圧の従業員が200人に減る。心血管疾患リスクは6%低下し、TIA(一過性脳虚血発作)を含む脳卒中のリスクは15%下がる。脳卒中については、95mmHg以上の全患者への降圧治療による成果の93%、および90mmHg以上の治療による成果の69%を叶える。この降圧薬投与は先ほど、最も確実な方法としてあげた。

前述のように、血圧が高くなくても脳卒中を起こす人がいるので、結果として、拡張期血圧が95mmHg以上の全員に降圧薬を投与して、その血圧を下げるよりも、全員の血圧をわずか2mmHgの血圧を下げるほうが、心血管系疾患数を減らすことになり、拡張期血圧90mmHg以上の従業員にかかる医療費を84%節約できる。

もしポピュレーションアプローチで全員の血圧をほんの少しずつ下げられれば、複雑なプロセスにコストをかけるハイリスク戦略よりよほど有意義だと想像できる。


全員の血圧を少しずつ下げる、うまい方法は、ある。

INTERSALTという大規模研究により、1日の塩分摂取量を2g減らせば、2mmHgの低下が実現すると試算された。塩分1gはだいたい醤油小さじ一杯、塩をほんのひとつまみの量だから、社員食堂の醤油差しの穴を縮めたり、食卓塩の蓋の穴を半分塞いだり、調味料を薄めたり、塩分をうまみで補う味付けをしたりすることで、充分に実現が可能だ。

一口食べてから、調味料を足そうと警告するだけでもいい。「いただきます」を忘れずに、作ってくれた相手に感謝しようという呼びかけでもいい。調味料を足す行為は、システム2による慎重な味や栄養の調整ではなく、システム1による慣例的な行為であることが、ほとんどだ。そうでなければ、口に含む前に調味料をかけるはずがない。自動的な動きに変化を加えるだけで、慣例による惰性的な塩分添加は抑制できる。

 社員食堂でちょっとした工夫をする介入は、全員の健診結果を集計し、ハイリスク群を選別し、個別に降圧薬を服用させるコストよりずっとずっと安価だとわかるだろう。買わなきゃ損だ。


法定健診結果によって受診する従業員のほとんどは、自律的に選択できている。受診勧奨によってはじめて受診する従業員は、自律的に受診する従業員より少なく、残念ながら、受診勧奨をしても受診しない従業員よりも少ない。

職域のヘルスプロモーションプログラムはこのように、健康のためにストイックな努力を惜しまない健康オタクとも言うべきわずかな健康エリートだけに効き目を及ぼし、圧倒的多数の健康無関心層には影響しない場合が多い。

ところが英国では、無意識の内に全国民の生活習慣が変容した。

2003年、英国国民1人あたりの塩分摂取量は1日10g弱で、WHOが推奨する最低量の2倍相当であった。イギリスの食品基準庁(FSA)はこれに対し、食品85品目に4年間で減塩の目標値を設定し、各メーカーに自主的な達成を促した。特に主食であるパンからの摂取塩分量は最も多く、パンメーカーには、特に強く減塩を通達したが、当然、メーカーは売上を懸念して抵抗した。

そこで、医学や栄養学の科学者集団CASH(塩と健康に関する国民会議)という団体が、興味深い実験を行った。段階的に毎週5%ずつ減塩したパンを食べ続けた集団と、塩分量に変化のないパンを食べ続けた集団に、6週間後にそれぞれの感想を尋ねると、どちらのグループも同様に、「特に味に変化は感じられない」と答えた。じわじわと時間をかけて減塩すれば、消費者は味の違いに気付かないという科学的な結果を受けて、塩分の漸減によりパンの売り上げに影響はないと示唆されたことで、パン業界が減塩に同意し、食品減塩プロジェクトが始動した。

大手パンメーカーは一斉に2%の減塩からスタートし、7年がかりで20%の減塩を達成、8年間で国民1人あたりの塩分摂取量を15%減らして8.1gまで下げた。つまり2g近い減塩に成功し、心疾患と脳卒中による死亡者数を4割減らすことに成功し、年間約2,300億円以上の医療費を削減した。

これは次に示す降圧薬の登場に匹敵する効果だ。同じことを企業単位で行なう可能性は充分にある。(https://www.bmj.com/content/365/bmj.l1778

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