健康経営施策を評価する指標は、1⃣科学的エビデンスがある、2⃣法令や政策で社会的に推奨されている、のどちらか、または両方の施策を選んだ上で、その実施率(浸透率)に設定することをオススメします。
ある企業から、こんなご依頼をいただきました。
メンタルヘルス対策として、これまで様々な情報提供、教育・研修プログラムの作成、健康相談等を実施してきました。社内の構造改革や経済状況の変化によるストレス増大も懸念され、より一層の積極的なメンタルヘルス対策が望まれます。効率的、効果的な対策を検討するため、メンタルヘルス状況の経時的変化を追う必要があります。当社のストレス状況・メンタルヘルス対策のKPIを設定し、一貫した施策の推進が望まれると考え、作成したKPIにコメントをお願いします。
【メンタルヘルス対策のKPI】
これは、あらゆる企業にとって、非常に大きな興味のある話題なのではないでしょうか?
企業が、社内施策の成果を評価する尺度を求める気持ちはよくわかります。
そこで、臨床医、産業医、労働衛生コンサルタント、公衆衛生学博士等であり、臨床医療と公衆衛生の知見から企業の健康経営を支援する専門家である私の回答を共有しましょう。
健康経営が謳われるようになって、「可視化」したがる人が増えました。
非難しているのではなく、素晴らしいことだと思います。
健康経営施策の目的は、「健康増進(ヘルスプロモーション)」と「疾病(不健康)予防」が中心です。
予防効果が個人レベルで直接定量できないことは、これまでしつこく説明してきました。
予防策は、疾病リスクを軽減する方法が一般的ですので、個人レベルでの予防効果はリスクの軽減効果で間接的に判断します。
一方、集団レベルのポピュレーションアプローチの予防策は発症率で予測できる場合もありますが、これはまたの機会に説明しましょう。
たとえば、血圧が一定以上に高くなると、脳卒中発症のリスクが高まることは科学的に明らかです。高血圧症を治療して、血圧を下げるのは脳卒中発症予防策と言えます。でも、血圧が高くても、脳卒中を起こさない人のほうが圧倒的に多いので、降圧して、脳卒中を発症しなかった場合、降圧したから発症しなかったのか、降圧しなくても大丈夫だったのかはわかりません。
ワクチンもそうですね。科学的に感染しにくくなること、症状を軽くすることは明らかですが、ワクチンを打って感染しなかった場合、ワクチンのおかげで感染しなかったのか、もしワクチンを打っていなくても感染しなかったのかはわかりません。
このように、リスクを下げることが科学的に明らかになっている、もしくは法令や政策によって社会的に推奨されている施策については、その施策の効果を判定するのは科学者や政治家に任せて、会社では、できるだけ多くの対象者に実施することに意味があります。
収縮期血圧を80mmHg下げる降圧薬投与を1%の高血圧症患者に行うのは医療で、集団全員の血圧を2mmHg下げるのが公衆衛生施策です。
企業の健康経営施策としては、できるだけ多く、できれば集団内の全員に、科学的に効果が明らかか、社会的に推奨されている「よさそうなこと」を行うのが理想です。
低血圧の従業員を含む企業でも、減塩施策は有効で、特にデメリットはありません。
ですから、健康経営施策を評価する基準としては、その施策に科学的エビデンスか社会的推奨があるかという点と、実施率を評価すればよく、いざ、施策の内容が決まれば、実施率を100%に近づけていけばよいのです。100%になったら、それを持続していけばOKです。
科学的エビデンスに基づいて、企業独自の施策をするのは悪い選択ではありませんが、すでに科学的エビデンスや社会的推奨があるのなら、企業独自のKPI設定は、あまりオススメしません。
また、科学的エビデンスも社会的推奨もない施策を、「よかれと思ってやる」のはオススメしません。担当者がよかれと思うのと、研究者が科学的に検証したもの、国の方針として公表されているものとは別物です。ちなみに研究者や政治家が科学的エビデンスや法令を出す手続きは複雑で、研究デザインや政策決定の動機は「よかれと思って」であっても、それだけでは不充分です。また、「全員の賛同が得られない」ので、反対者の意見を汲んだかたちで、規定のかたちを崩すのもNGです。 たとえばストレスチェックに用いる職業性ストレス簡易調査票57項目という質問紙を、勝手に自社オリジナルにして、質問を削ったり足したりしてしまうのはNGです。
悪気がなくても、良かれと思ってやっても、残念ながらNGです。
受検率を上げるために、良かれと思って、あまり効果のない努力をするのはまだしも、科学的エビデンスや社会的推奨を自分なりにアレンジするのはNGです。決められたこと、確かめられたことは、そのままのかたちで実施してください。 オリジナリティーを出したい担当者は、決められていない部分で遊びましょう。たとえばストレスチェック制度なら、その後のセルフケアやラインケアに企業ごとの個性を出してください。
施策そのものを変形するのは、「合理的配慮」とは言えません。科学的エビデンスや社会的推奨が、充分、実施理由として妥当なのとは反対に、素人の配慮でそれらを変形させる妥当性を証明するのは困難です。その困難に打ち勝ってまで変形させたいのなら、科学的エビデンスを検証したり、政策提言したりすればいいでしょう。
さて、冒頭の企業は、KPIとする指標の提案として、以下をあげました。
職業性ストレス簡易調査票の集計結果において職場のストレスである、ストレス要因9項目とストレス緩衝要因4項目(ママ)のうち上司の支援·同僚の支援の2項目の11項目の合計点(職場が原因となるストレス要因の自覚者を指標とし、「自覚者率を下げられる対策」を検討し、 「下がったか否か」を評価基準とする。計11項目のうち、何についてのストレス自覚者が多いのかについても分析し、施策内容の検討に活用する。)
ストレスチェックの高ストレス者該当率(高ストレス者該当者は、長期休業のリスクが男性 8.9 倍、女性 3.7 倍高くなると報告されており、休業者の前段階の評価が可能である。但し、高ストレス者の判定は、ストレス症状の程度から評価されるため、仕事以外の要因によるものも含まれる。上記1)と合わせて評価する。)
メンタルヘルス疾患による休業者率(休業者率は、最終的に会社の責任が問われる結果、人的資源損失の結果であり、メンタルヘルス対策の最終目標と考えられる。これも職場のストレス以外の要因によるメンタル疾患休業者も含まれるため、事業場におけるメンタルヘルス対策の効果のみを反映するものにはならず、且つゼロとすることは難しい。)
皆さんは、たいへん立派で素晴らしい提案だと思ったのではないでしょうか。
2. には、科学的エビデンスの記載もあります。
結論は、全然ダメです。
全体の中で、もともと小さな割合を占める集団の大きさで素人が何かを評価するのは非常に危険です。基本的には横断的に一定の特性のある集団の大きさを評価するのはやめましょう。
ストレスチェックの指針に従い、高ストレス者率は10%程度になるように設定します。たとえば全従業員1000人の企業で受検率が80%(800人)、高ストレス者率が11%(88人)だったとしましょう。もし、全員が受検していたと仮定したら、未受検の200人の結果によって、高ストレス者率は、8.8%~28.8%になります。
ストレスチェックの目的は、各従業員がストレスレベルを自覚してセルフケアをすることですから、たとえ高ストレス者率が28.8%でも全員が受検したほうが成功です。
KPIを高ストレス者率の低下にすると、88人の高ストレス者に来年のストレスチェックを受けさせないのが一番いい方法になってしまいます。それで翌年の受検率が70%になっても、KPIは達成できます。
実際に、職場環境改善やセルフケアによって、自分の意見を表出しやすくなり、満足度やモチベーション、エンゲージメントなどが上がると同時に、高ストレス者率が増える場合があります。回答を忖度しなくなって、正直に答えた結果で、結果が高ストレスになってもメンタルヘルスは増進しています。これこそ政府の目指すところで、ストレスチェック受検そのものがメンタルヘルス増進につながるマジックです。
縦断的な評価で、連続して高ストレスだった人がそうではなくなったり、連続して高ストレスではなかった人が高ストレスになったという変化に注目して、個別に対応するハイリスクストラテジーは悪くないでしょう。
また、全社で集団分析を行うと、高ストレス者率が上位の集団では、受検率が低い傾向があります。1000人の母集団なら、高ストレス者がひとり増えるごとに高ストレス者率が0.1%上がりますが、20人の集団なら5%上がります。事象としては等しく1人が高ストレスになっただけなのに、高ストレス者率で評価すると500倍悪くなったように見えてしまいます。高ストレス者率は上がるより下がったほうが嬉しいのはわかりますが、高ストレス者率が高い集団に対するハイリスクストラテジーであっても、受検率を上げることが有利です。
そもそもストレスチェック制度は、自覚の強い高ストレス者に面談の機会を与えはしても、ストレスチェックの結果をなんらかの評価の対象にしてはいけないと明示しています。 「セルフケアにつながる気付き」という効果でメンタルヘルス増進に寄与するという設定ですから、受検そのものに意義があります。
ストレスチェックの点数で何かを評価するのは、コンプライアンス違反です。
メンタルヘルス不調による休業者率は、高ストレス者より、更に、ずっと小さい集団ですよね。
しかも、メンタルヘルス不調による休業は、57項目の質問紙に応えて分類されるのではなく、多様な経過を辿って起こる結果です。休業者全員にそれぞれの多様なストーリーがあり、共通点は「ナウ、休んでます」だけです。
そもそも療養休業には、疾病により業務の遂行を妨げられるけれど、療養と治療によって業務との両立が可能な状態になる希望が持てるという前提があります。つまり、本来なら勤怠の乱れとして処分するところを、将来に期待できるという合理性で期間限定で許可する業務支援制度です。 休業者率は新たな休業者数だけでなく、休業を継続している従業員や休職規定が過ぎて退職する従業員を反映します。休業中の従業員は社内施策の恩恵を受けられません。休業者に影響を及ぼさない社内施策を、休業者率で評価するのはおかしいですよね。新たな休業者率を評価すればよいというわけでもありません。 社内施策はあくまで全体としてのメンタルヘルスを増進し、集団内のメンタルヘルス不調を予防するのもので、血圧に例えれば、全員の血圧を2mmHgずつ下げるような効果です。血圧がグレーゾーンの従業員の総リスク低減や長期の医療費削減には効果がありますが、重症高血圧者の治療を代替する力はありません。 休業を要する従業員には、個別に必要な治療と対応をすることが、まさに合理的配慮で、それを社内施策測定に用いてはいけません。これもKPIを達成するためには、休職規定を1ヶ月にする、傷病休職を許さず、欠勤者を勤怠の乱れとして処分するという戦略が一番簡単です。
もし、どうしてもKPIを設定したいのなら、ストレスチェックの受検率をあげるほか、メンタルヘルスリテラシーを高めるeラーニングの視聴率を上げる、できるだけたくさんのメンタルヘルス増進グッドプラクティスを集める、ディストレスを高めないルールを設けるなどがおすすめです。
健康経営施策のKPIを設定したいという企業は、いつでもご連絡ください。
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