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Yoko Ishida

4)プロジェクトリーダーとしてのチームマネジメント

名人の仕事は目立たない


 サレンバーガー機長は、両翼のエンジンが故障するという危機的な事故からわずか208秒後、約3分半後に機体を川面に着水させました。「ハドソン川の奇跡」です。

 サレンバーガー機長を幸運だと評する人は多いでしょう。しかし、機長として機乗中に、両方のエンジンが同時に壊れるという、天文学的な確率でアンラッキーな目に遭っているのです。明らかに幸運とはほど遠いでしょう。

とっさの判断ができたのは、離着陸をくりかえすタッチアンドゴーなどの地道な基礎訓練、経験の積み重ねで体に染みついた動き、そして無限にくりかえした妄想が育んだ知恵の賜物でしょう。

手術プロジェクトにおける麻酔科医の役割は、航空機の飛行プロジェクトにおけるパイロットの任務に喩えられることが多いです。絶対の安全を保障し、どんなトラブルもリカバーしなければならないという共通点があるからです。

 パイロットや麻酔科医のようなトラブルバスターは、実践訓練の場が限られるからこそ、あらゆるトラブルを妄想する力が重要です。本書では「妄想」を、職業上のイメージトレーニングという意味合いで用いています。

 幸運が招いた成功のように見えますが、名人級の職人はトラブルを避けるために、また、いざというときには神業でトラブルをリカバーするために、たいへんな努力をしています。

名機長だからこそ、未曾有の大惨事を回避して奇跡の立役者になりましたが、おそらく普段のサレンバーガー機長は、名麻酔科医同様、あまりアクシデントに遭わない、運のよいパイロットで通ってきたのではないでしょうか。

 人は、その仕事をしっかりと見てもらい、適切に評価してもらうことで、徐々にパフォーマンスを上げていくものですが、仕事ができるようになればなるほど、どんどんその仕事を評価できる人が減っていくというジレンマがあります。専門的であればあるほど、優秀であればあるほど、そうでない人からは何もやっていない運のいい人に見えてしまいます。特にパイロットや麻酔科医の仕事ぶりは、重要な局面であればあるほど、乗客や患者の目には触れません。

 いつの間にか済んでいるのがよい仕事で、よい仕事ほど目につかないので、よい仕事ほど評価される機会を失っていきます。一方で、いつでも何かに追われて忙しく働いているように見える仕事は、まず、よい仕事ではありません。

 何もしていないように見えているときは、よい仕事ができているときなので、自分さえそれを知っていれば評価されなくてもよいのですが、優秀な外科医ほど、麻酔科医の何もしないさまをチェックしています。これは麻酔科医冥利に尽きるゾクゾクする視線で、同時に脅威です。専門性を高めていくと、その機会が減ってしまうからこそ、正当な評価をしてくれる相手には、強烈な畏怖を覚えます。

 下手な外科医ほど、うまくいかない過程をボディのせいにしたり、麻酔科医のせいにしたりしてアリバイをこしらえる一方で、巧みな外科医は、最善の環境を自らつくり出して、ゆうゆうと手術をこなします。ボディのほうが自ら動いて、手術をやりやすくしているようにさえ見えます。往々にして下手な外科医は、巧みな外科医を僻み混じりに幸運だと評します。そして、巧みな外科医は、何も見ていないような顔をして、何もかもを見ているのです。



外科医との危険な関係


 ある朝、手術室に入ってくるなり、執刀医がつぶやきました。

「石田先生、黄色だよ、ニクイな~」

 ボディは、大腸がんに肝硬変を合併していました。肝硬変により機能が衰えた肝臓は止血のための凝固因子や血小板を充分に産生できません。出血に備えて、手術中の細かい血圧管理をするために、動脈にカテーテルを挿入して、持続的に血圧を測定します。

 普段は22ゲージ(0.64mm径)の青色のカテーテルを用いるところ、一回り小さい24ゲージ(0.51mm径)の黄色いカテーテルを用いた意図を、この外科医は透明の固定フィルムの奥の、1cm程度のハブの色を目にしただけで、一瞬で気付いたのです。長身の彼の目からハブまでは、1m以上の距離がありました。

 黄色い24ゲージは針穴が小さい分、管を抜く際の出血を抑えられますが、細い分、手技が難しく、閉塞しやすいです。一方、青い22ゲージは通例で、実技の経験数は豊富で、選択の根拠が明確です。わずかな出血を避けるために不慣れな手段に挑んで失敗すれば、出血傾向のため、みるみる血腫ができてしまい、再穿刺することさえできなくなってしまいます。カテーテルが閉塞すれば、その目的である血圧の持続的な測定ができなくなります。万が一、失敗や閉塞が起こったら、黄色い24ゲージを選択した言い訳はできません。リスキーな症例に対し、通例とは異なる材料を用いるのは、医療安全の鉄則に外れた不当な行為とさえ言えるでしょう。

 訓練中の麻酔科医が、同じ症例で普段とは異なる黄色のカテーテルを選択したら、私は叱るでしょう。だからこそ看護師の介助もつけず、こっそり穿刺したのです。

 遠くから動脈ラインのわずかなハブの色を見た瞬間、そうつぶやいた外科医を、私は心底恐ろしいと感じました。そもそも私は、この外科医が執刀するから後輩には勧めない選択肢を取ったのでした。

 これは麻酔管理というより、手術チーム管理なのです。

その場にいた他の外科医や看護師たちは、なんの話だかわからないようで気にも止めていませんでしたが、それは彼の「ありがとう。石田先生の心意気に応えて、最小限の出血で手術をするよ」という宣言だったのだと思います。

 果たしてその宣言通り、彼は、それは美しい手術をしました。本来、彼が執刀するなら、細かい工作は必要ありません。おそらく彼は、どんな環境でも完璧な手術をします。そんな外科医だけが、麻酔科医の見えない仕事を評価して、買ってくれるのでしょう。


 麻酔科医を描いた漫画、「麻酔科医ハナ」には、「外科医の愛人」という表現が出てきます。漫画では、できのわるい外科医の言いなりになって、麻酔科医の本分である生命の恒常性維持に逆らう未熟な麻酔科医がそのように揶揄されています。

語弊を恐れずに言えば、私は外科医の愛人でありたいと思っています。麻酔科医と外科医は、手術の間だけの一時的な相棒ですが、その際、お互いが預け合う信頼はたいへん厚く、スリリングで濃厚な関係です。愛しい外科医のためなら、医療安全の鉄則さえ侵します。

もちろん、愛人でありたいと思うのは、ほんの一握りの、とびきりうまい外科医に対してだけで、誰でもいいわけではありません。

よい麻酔科医の仕事は、よいホステスの仕事と同じだと言い切るベテラン麻酔科医がいます。確かに、相手が仕事で社会に気持ちよく貢献できるようにエンゲージメントを高めるという目的は、ホステスの接客と手術チームのマネジメントに共通しています。



幸運で陽気な用心棒


 よい愛人やよいホステスは、エレガントで余裕のあるイメージではないでしょうか。実際に、忙しそうにせこせこと余裕なく仕事をする麻酔科医は、手術チームから信頼されません。

 麻酔科医はトラブルバスター、何かあったときの用心棒であり、頼みの綱です。なにもないときからあたふた、ちょこまか忙しそうにしているよりも、むしろサボっているように見えるくらいでいいのです。

 旅客機であれば、ひとたび離陸して、天候も良好、順調な飛行の間は、機長は余裕綽々としていたほうが、アテンダントにとって心強いでしょう。手術チームも同じことです。何か起こる前から、麻酔科医がイライラ、バタバタしていると、何か起こったらどうなるのだろうと、ほかのメンバーは不安になります。

 そもそも多くの人にとって、手術室で全身麻酔下に手術を受けるのは、一生に一度のイベントです。当然、入室の際には、ガチガチに緊張しています。そんな状況で手術チームをまとめる麻酔科医が緊張していれば、手術室はガチガチムード一色になってしまいます。新規配属の新米看護師や研修医、実習の学生もガチガチに緊張します。ガチガチはチームに伝染します。

 このような環境を改善してチームの生産性を上げるのは、麻酔科医の役割です。麻酔科医がテンパっていると、軌道修正は難しくなります。


研修医の頃、日本一の呼び声高い名ME(医療技術者)に、人工心肺の管理だけでなく、麻酔科医としてのさまざまな心得を教わりました。

 彼の教えの中で、最も身に染みついているのが、「ぽよよん」です。

 手術を受ける患者の立場で、横向きになって背中に麻酔の手技を受けるのは、何をしているか見えないので怖いものです。そのとき背中の向こうから、「違う、違う」と叱る声や、「あっ!」と、何か失敗したような声が聞こえたら、どんなに不安でしょう。

患者だけでなく手術チームのメンバーも、特殊性の高い麻酔管理の正解がわからないからこそ、麻酔科医が首をひねって考え込んだり、「あれ?」と間違えたような声を出したりすると、全員が不安になります。不安も緊張同様、伝染します。

麻酔科医は頼りになる用心棒らしく、常に余裕のあるムードメーカーでなければなりません。

名MEはそう指導して、「だから僕は、『あっ!』や『あれ?』のかわりに、『ぽよよん』ということにしているんだ」とウインクしてくれました。彼こそ、真のムードメーカーであり、指導者です。教科書に書いてある人工心肺の構造や操作法は、いくらでも自律的に学べますが、このような生きたコミュニケーションのコツは、本物のプロフェッショナルにしか教われません。

麻酔科医は常に手術プロジェクトのリーダー職を担わなければなりませんが、自分がチームの中で一番経験年数が少なく、専門性が低いこともあります。研修中なら毎日です。その場合は百戦錬磨の猛者達が、こうしてサポートしてくれますが、リーダー役を逃げることはできません。

 私はこれにかわいらしさを加えて、「にゃー♪」に決めました。これはもうしっかり身について、手術室の外でも無意識に「にゃー♪」が出ます。


新型コロナウイルス感染症の流行によって、私の活動量はそれ以前と比べて数倍、ときには10倍に増えました。地方公共団体や大学医局からの応援が途絶えた医療機関を、公衆衛生専門職や麻酔科医として手伝ったからです。

世の中には消防や警察、臨床医など、非常時にこそ、現地に赴いて仕事をしなければならないエッセンシャルワーカーが存在します。そのため私は、原則として手術室に歩いて出勤できる場所に住むことにしています。


その朝は、台風の影響で公共交通機関が計画運休して、有識者が無理な出勤に警鐘を鳴らしていましたが、私は徒歩で、通常通りに出勤しました。

 その未明に運び込まれた外国人旅行客に対する特殊な状況下での緊急手術を前に、外科医は見たことのないほど緊張していました。しかし私の姿を見て安堵し、みるみる表情を落ち着かせました。

「『石田先生が麻酔してくれるから大丈夫』ってご説明したんです」と嬉しそうに一言漏らすと、ピリッと一瞬で、いつもの名外科医の顔に戻りました。

 手術は特殊なものでしたが、私は結局、普段通りの麻酔管理をしただけです。それでも手術チームはたいそう感謝してくれました。緊張する場面では、いつもと同じ麻酔科医が、いつもと同じ表情で、いつもと同じようにぼんやりと麻酔をかけていることに救われるのでしょう。

 普段とは異なる状況や技術的に難しい手術に向かうのは、医師だってこわいものです。そんなとき、ひょうひょうとしていながらも頼りになる用心棒がただ座っているだけで、いつも通り、いや、それ以上の実力を発揮できるのかもしれません。

 麻酔科医の出番がないのが、よい手術なのです。


 信頼される麻酔科医であるためには、トラブルバスターとしての腕がいいのはもちろんのことですが、実際にその腕を見せる機会はないに越したことはありません。いつのまにか難症例を乗り越えている麻酔科医は、本当のところ、麻酔管理の腕がいいのか、それとも単純に運がいいのか、外科医にはもちろん、当の麻酔科医にもわかりません。

それでも外科医は、験のいい麻酔科医を指名します。非科学的で驚かれるかも知れませんが、手術室では運や験や勘のほうが、学歴や経験や技術より信頼されるのです。


 私は術前診察で、できるだけ執刀医を具体的に褒めるようにしています。誰でも一つくらい、褒めるところは見つかります。褒めるところしかないようなすばらしい外科医の場合は、具体的に褒めるよりも仲のよさと親しさをアピールすることにしています。

くりかえしになりますが多くの人にとって手術は一生に一度、当然、不安でガチガチに緊張するものです。自分の選択を肯定しては否定し、「本当にこの病院で、この執刀医でよかったのか」と逡巡しています。そんなとき別の医師から自分の執刀医を褒められるのは、たいへん心強いものです。

 これは逆もまた然りです。よい外科医は必ず事前に「よい麻酔科医がかけますよ」とすり込んでおいてくれるものです。これは患者にとってはもちろん、麻酔科医にとっても、なによりの前投薬と言えるでしょう。

「外科の先生から、すばらしい麻酔科医が担当されると伺ったので、お逢いするのが楽しみでした」なんて告げられようものなら奮い立ちます。人間のやる気を操作するのは、実はたやすいものです。だからこそ、手術というプロジェクトの成功のためにチームのメンバーが互いに褒め合います。患者やその家族にとって、手術チーム内の専門職同士が褒め合うのは、最も安心できるでしょう。

手術チームは、こうしてうまく転がし合います。

 手術のうまい外科医や症例数の多い病院についてはそれなりに情報が世に出ているので、医師や病院を選びやすいでしょう。しかし麻酔科医を選ぶとなると、ほとんど情報が出ていません。麻酔科医は患者ではなく、同業者である外科医に指名されるものだからです。

 逆にそんな麻酔科医は、いろんな手術に参加するからこそ、外科医だけでなく手術チームを選ぶ目に長けています。もし外科手術を受けることになったら、麻酔科医に情報を求めることをお勧めします。

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